2009年

ーー−6/2−ーー 息子の腰痛

 
大阪の大学に通っている息子が腰を痛めた。原因は定かでないが、発症したのは4月下旬頃とのこと。

 連休明けになって痛みが増し、これはまずいと感じたそうである。そこで、近くの病院(整形外科)に行った。多くの患者でたいそう待たされた挙句、医師は体を触りもせずに、椎間板ヘルニアと診断した。治療法は、痛み止めの薬と保存療法だと言われた。ようするにじっとしていて、治るのを待つのだと。

 その話を電話で聞いたとき、私は鍼灸治療を勧めた。しかし息子はそのような「東洋医学」に懐疑的であった。このまま整形外科に通うと言った。

 10日ほどして、さらに病状は悪化したと連絡が入った。

 肉月に要と書くこの部位の重要さは、実際に痛めてみて初めて分かる。腰の具合が悪くなっただけで、これほど全身が動かなくなるものなのか。健康な時には想像もできないほど、深刻な事態に陥る。息子も「これから先の人生について、絶望的な気持ちになってきた」と言った。

 治るどころか日増しに悪くなる症状を感じ、息子は整形外科の保存療法に見切りをつけた。「溺れる者はワラをも掴む」心境だろうか、鍼灸治療を受けてみようと言い出した。

 私は自らの経験に基づき、鍼灸医にかかる際の心得を伝えた。どこへ行っても同じような治療を受けられる西洋医学と違って、鍼灸の世界は玉石混交である。まともな治療を受けるためには、患者の側にもそれなりの心得が必要なのである。

 息子が、住んでいる地域を調べたら、鍼灸整骨と名の付く治療院がたくさん見つかったそうである。彼はその内の一件に行ってみた。直後の電話連絡によると、受けた治療の内容は、私から聞いていた話と全く違っていたとのこと。

 私は息子の話を受け、掛かり付けの鍼灸院のH先生に電話をして相談した。結局その鍼灸整骨院は不適と判断された。折り返し息子に連絡をして、別の治療院を探すように言った。適切な治療院を見つけるための、H先生のアドバイスも伝えた。

 息子は新たな治療院に狙いを定め、電話で予約をした。出向いた先は、普通の住宅のようなところで、三十代半ばくらいの女性の鍼灸師だった。中国の人で、向こうで鍼の勉強をし、日本でも学校に通って資格を取ったとのこと。「なぜこの治療院にしたのですか」と、聞いてきたので、息子は「整骨や接骨などを除き、鍼灸だけを掲げている治療院を探しました」と答えた。すると「それは正しかったです」と返してきたそうである。

 その鍼灸師は、これまでの経緯を詳しく聞き、全身をくまなく触って調べ、この症状は鍼治療で治ると断言した。治療は1時間半に及んだ。全身に40ヶ所ほど鍼を打ち、その後指圧でもみほぐした。私が息子に伝えた「好ましい治療院」の条件にピッタリと一致した。

 一回目の治療を終えた翌日、あれほどひどかった症状の大半は消滅したと息子は言った。まさに驚異の治療効果であり、我が身のことながら、信じ難いほどであると。

 日本では、鍼灸というと怪しげな民間療法のような見方をされ、医者の中には馬鹿にする人も少なくない。しかし中国では、医科大学で鍼灸治療の講座は必須科目であり、鍼灸を専門に学ぶ科もあるという。日本では、腰痛といえば整形外科だが、中国では鍼灸院に行くのが当たり前だそうである。

 電話の向こうで息子は、「治らない治療が、保健制度によって推奨され、悩める患者が溢れかえっている。一方、治る治療が、保健もきかず、冷遇されている。こんなことで、日本の医療はよいのだろうか」といきまいた。



ーー−6/9−ーー 採算が合わない小箱

 
 画像は、A4サイズのファイルが入る大きさの小箱。箱本体は組み手で作り、蓋は三枚組みの框組み構造。蓋は本体へスライドして収まる。材は、底板まで全て無垢材を使っている。材種はクリ(上)と、クルミ(下)の二種類。いずれも手掛けの部分は色の濃いシュリザクラを使っている。

 注文は2ヶだったが、仕事の効率を上げるために6ヶ制作した。手作り木工でも、多かれ少なかれ、量産効果というものはある。1ヶだけ作るよりも、まとめて作った方が、1ヶ当りの制作時間は短くなる。しかし、その効果も場合によりけりで、ある著名な木工作家は雑誌の対談の中で、「木工というのは同じものを一度にたくさん作っても、思うほど能率は上がらない。それはやってみれば分かること」と述べている。

 はたしてこの小箱は能率良く作れたか。他の仕事と並行してやったので、単純には言えないが、やけに時間がかかったという印象が残った。

 このタイプの箱は、これまでも何度か作っており、設計図も作り方も確定している。今回新しくやったことと言えば、手掛けを付けたことぐらい。他の部分は「いつもどおり」にやれば良い。それでも、相応の手間がかかるのは避けられない。構造が単純ではないからである。

 結果的には、手間がかかり過ぎ、採算の合わない品物となった。こういうサイズで、こういう用途の物は、世間的に見て価格帯が低い。制作にかかった手間を全て価格に置き換えると、世間相場から大きく外れてしまい、誰も買わない商品になってしまう。買ってもらうためには、かかった手間を度外視しても、低い値段を付けざるをえない。逆に、私が設定している日当でこの箱を作るとすると、1日に1ヶ半のスピードで作らなければならないが、それは不可能である。

 手のかかった小木工品というのは、ビジネスとしては難しいものだと思う。同業者の中にも、この手の品物を作る作家はいるが、家具の展示会をする際に、「添え物」として並べるケースが多い。もっぱらこういう品物を作って生業としている作家は、私が知る範囲内にはいない。

 かくして、優れた品質の小木工品というのは、世の中にほとんど出回らなくなる。採算が合わないから、職業木工家は作らないのである。その裏を返せば、何かのチャンスで、優れた小木工品を手に入れることができた人は、幸運だと言えるだろう。木工品に限ったことではないが、良いものと出会う機会は、そうざらには無いのだと思う。 



ーー−6/16−ーー 41年ぶりの金峰山

 奥秩父の金峰山(きんぷさん)は、私が生まれて初めて、テント泊の本格的な登山をやった山である。それは中学3年のとき、山岳部の夏山合宿で訪れた。それまでにも、学校の遠足や家族のハイキングなどで、高尾山や奥多摩の山に登ったことはあったが、金峰山の山行は全く違うスケールだった。その時の経験が、その後の私の登山人生を決定付けたと言えるかも知れない。

 先週、その金峰山を登りに行った。実に41年ぶりである。この思い出の山に、家内を連れて登ろうという考えは、以前からあった。しかし、中学の時の「奥深い山」というイメージが強く残っており、おいそれとは登れないような気がしていた。

 この41年間の間に、状況はずいぶん変わった。舗装道路が谷の奥まで入り、一部は稜線を越えた。二泊三日を要した山は、現在では車を利用すれば、日帰りが可能になった。

 朝4時半に自宅を出た。中央高速を須玉で降り、増富ラジウム温泉を抜けてミズガキ山荘に着いたのが6時半。中学の時は、まだ砂利の林道だったこの道を歩いて下山した。増富ラジウム鉱泉(その当時は鉱泉という名だった)まで歩いて、そこからバスに乗って帰ったことを思い出す。

 ミズガキ山荘の前の駐車場に車を停め、登山開始。ザックの重さは、私が13キロ、家内が4キロ。普段まったく運動をせず、しかも最近太り気味の家内には、これくらいハンディを付けてちょうど良いと考えた。

 天気図で見れば、良い天気になると思われたが、実際には上空に不安定な要素があったのだろう。スカッとは晴れない、曖昧な空模様であった。それでも時折青空が見え、陽が射した。

 登山口には10台ほどの車があったが、登りの途中でほとんど人に会わなかった。ひょっとしたら、大半の人は途中からコースを分かれて、ミズガキ山の方へ向かったのかと思った。

 ゆっくりとしたペースで、順調に高度を稼ぐ。このコースは、41年前は下山に使った。途中の山小屋のたたずまいや、大日岩の偉容は、かすかな記憶の底から甦った。

 11時少し前、金峰山の山頂に着いた。そこには若干の登山者がいた。恐らく別のルートから登って来たのだろう。山頂には五丈岩という、巨大な岩の塔がある。その前に、小さな鳥居があった。何度か建て替えられたものだろうが、その鳥居と五丈岩が重なる風景は、昔と変わりがなかった。

 山頂の標識に、2599メートルと書いてあった。前回登った時の標高は2595メートルだったと記憶している。いつの間に高くなったのだろうか。

 五丈岩の前のちょっとした広場の岩陰で、湯を沸かし昼食をとった。周囲の景色を眺めて、41年前の出来事を思い出し、感傷的な気分になるかと思ったが、特にそういう事もなく、普通に楽しい山頂のひと時だった。

 家内は自分の登山靴を指し示して、15年前に長女の中学校登山のときに買ったものだと言った。次女も学校登山で使った。それを今は自分が使っているのだと。何でそんな話を始めたのか分からなかったが、この先に起こることを暗示していたのかも知れない。

 下山を始めてしばらくしたら、靴のゴム底が剥がれかけてきたと家内が言った。最近の登山靴に、経年劣化によって靴底が剥がれるというトラブルがあることは、耳にしたことがある。家内の靴を見て不安にはなったが、対処法も無いので、そのまま歩かせた。

 その数分後、ゴム底が無くなってしまったと家内が言った。気づかないうちに、剥がれて何処かへ行ってしまったのだと。

「とって良いのは写真だけ、残して良いのは足跡だけ」という標語があるが、今回は靴底を残してくる結果となった。

 私が35年前から使っている登山靴は、ゴム底が縫い付けてある。職人の手作りによるものである。こういう靴は、使ううちに傷んで、縫い目が切れてきても、一気に剥がれることはない。症状が緩慢に進むので、適当なタイミングで修理に出せば良い。

 それに対して、今回家内が使った登山靴は量産品であり、接着剤でゴム底が貼り付けてある。その接着力が、年月と共に低下して、あるとき突然、全面的に剥離する。登山中に靴が破損するのは、重大事である。起きてはならない事だとも言える。それがいとも簡単に起きてしまうのだ。こんなことで良いのかと、憤りを覚えたが、たぶんクレームをしても、相手にされないだろう。こういう製品が当たり前の時代なのである。

 家内は、ゴム底の無い靴を、それ以上破損しないように気遣いながら、歩いた。そして、登りと変わらないくらいの時間をかけて、登山口にたどり着いた。思わぬアクシデントがあったけれど、無事に登山を終えることができて、ほっと安堵した。

 下山と同時に雨が落ちてきた。車が発進してすぐに、土砂降りの雨となり、雹も混じってフロントガラスを叩いた。そんな天気の中を運転しながら、私の心はすっきりと晴れ渡っていた。思い出の山の再訪を果たした喜びは大きかった。

 一方家内は、体力的な不安を乗り越えて、久々に本格的な登山を成し遂げた事を喜んでいた。そして私が「運転手兼ポーター付きで山に登れて、楽しかっただろう」とからかうと、助手席で素直にうなずいた。


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 画像の一枚目は、中三のとき、山頂の鳥居の所で五丈岩をバックに撮影したもの。二枚目は、同じアングルで撮った今回のもの。

 三枚目は、破損直後の靴底(右足)。下山地で見たら、さらにひどくなっていた。

 四枚目は、中野三中山岳部が、金峰山登山の二泊目で大弛峠に張ったテントのスナップ。今では見ることがないような、昔懐かしい形のテントである。この当時の大弛峠は、まだ自動車道が通じておらず、原生林の中の静かな場所だった。今ではマイカーやオートバイが乗り付ける、開けた場所になっている。そこからだと、軽い荷物なら2時間ほどで金峰山まで達することができる。便利にはなったが、それで登山の喜びや楽しみが増したかと言えば、全く逆であろう。












ーー−6/23−ーー ミニ・ヘリコプター

 
父の日(21日)の昼過ぎ、東京でOLをやっている長女から小包が届いた。開けて見たら、手の平に乗るサイズの、リモコン・ヘリコプターだった。これは意外な、そして嬉しいプレゼントだった。50代後半に突入したオヤジでも、こういうモノに触れると気分が浮き立つ。男というものは、そんな生き物なのだ。

 この手の品物が世の中にあることは、以前ラジオの番組で聞いたことがある。製作した会社の人が、実際にスタジオ内で飛行の実演をした。それを目にしたラジオ局のアシスタントの興奮ぶりに興味をそそられた。テレビと違って画像が見えないので、一層イメージが膨らんだのかも知れない。一度手にしてみたいと思った。しかし、自分で買うまでには至らなかった。そういうモノをプレゼントで貰うと、かなりインパクトがある。

 このミニサイズのヘリコプター、外見は本物と変わりがない。ただ、ローター(回転翼)が幅広で短め、つまりずんぐりとした形をしている。それが昆虫の羽根のようで、可愛いらしい。また、ローターの上に、半分サイズの回転翼が付いている。これはスタビライザーと呼ばれる飛行制御装置で、形状のバランスは別として、機能的には本物と同じしくみだそうである。そういうことは、ネットで調べて分かったのだが、詳細は難しくて理解できなかった。

 ともあれ、驚異の玩具である。蠅や蜂が飛ぶことを奇跡の業と評した科学者がいたそうだが、この玩具もそれに近い印象である。私も元はエンジニアのはしくれであったから、新しい機械や装置を開発する際のポイントや、乗り越えるべき問題点について、ある程度想定できるつもりでいる。そういう「エンジニアのセンス」から見ても、この品物はおよそ実現不可能な物体のように感じられた。

 空気や水といった流体を相手にする装置は、小さいものほど難しい。スケールが小さくても、流体の密度は同じだから、挙動が安定しにくくなるのである。紙飛行機でも、小さくなるほど、悠々とは飛ばなくなる。

 製造技術の面から見れば、小さくすることで実現が難しくなるパーツもある。モーターやバッテリーなどは、いくらでも小さなものができるわけではない。小さいものを作ろうとするなら、素材の開発まで踏み込まなければならず、加速度的に難しくなる。バッテリーでモーターを回し、機体を宙に浮かすには、それなりのパワーを、それなりの軽さで実現しなければならない。このミニ・ヘリコプターは、元々論理矛盾を含んだような性格の物体なのである。

 スイッチを入れて、飛ばしてみた。ブーンという回転音は、まさに蜂の羽音のようだった。操縦には、ある程度の慣れが必要だと感じられた。非常にデリケートな動きをするので、気を抜けない。何かの拍子でバランスを崩し、機体が床にころがったら、スーッと横っ飛びになって、隣の部屋まで行ってしまった。重力に打ち勝つためのローターの推進力の大きさを、改めて知らされた。

 それでも、しばらくいじっているうちに、ホバリング(空中で停止すること)に近いこともできるようになった。自由自在に思い通りのコースを飛ばすことはまだできないが、この人工的な物体が目の高さにじっと浮かんでいるのを眺めるだけでも、十分に不思議で面白い。

 ラジオ番組の中での説明を思い出す。携帯電話などに使われているハイテク技術が、背景になっているとか。そういうことだとは思うが、時代遅れの元エンジニアには、目の前の不思議な光景の説明には、ピンとこない。



ーー−6/30−ーー アームチェア・ピアス

 
本欄の4月の記事で取り上げた新作アームチェアのクッション座版が出来上がった。自分で言うのも何だが、なかなか良い感じの品物になった。

 名称は、当初は「SSアームチェア」を考えていたが、それではちょっと味気なく、この椅子が可哀想な気がして、「ピアス」という愛称を付けることにした。アームチェア・ピアスと呼んでも良い。ピアスとは英語で「付き通す」、「貫通する」という意味。この椅子の特徴である、背板とアームを後脚が付き通している形にスポットを当てた命名である。

 このクッション座版は、編み座版と比べて、形がすっきりしている。それは、構造上の理由で、フロント・ストレッチャー(前脚どうしをつなぐ強度部材)とバック・ストレッチャー(後脚どうしをつなぐ強度部材)を省略したことによる。

 このホームページのあちこちで書いているが、私はクッション座のイスが好きである。自宅のダイニングで毎日使っているのも、クッション座のSSチェアである。編み座のイスも、もちろん素晴らしいのだが、いかに製作者本人でも、好みはある。いろいろな意味で、クッション座は「手堅い」感じがある。手堅いことが好きな性格と、相性が良いのかも知れない。

 ここで使われているレザーは、最高級品である。高級過ぎて需要が少ないため、数年前にメーカーが生産を中止した。現在は、松本の張り屋さんが在庫として持っているものを使わせて貰っているが、それを使い果たせば終わりである。この椅子のクッションが出来上がったという連絡が入ったので、張り屋さんへ取りに行った。品物を手渡しながら店主は、久し振りといった感じで、「やはり良いレザーはいいねえ、全然違うよ」と言った。

 さて、冒頭でこの椅子の出来栄えに満足をしている旨を述べたが、これには私自身の中の変化というような物があるかも知れない。

 以前の私が追及していたのは、Catに代表される、流麗で美しいフォルム、どう見ても綺麗な形態、であった。その頃の私がこのピアスを見たら、眉をひそめたかも知れない。「珍奇なモノ」という印象が先に立って、プラスの評価はできなかっただろう。確かに、珍奇な代物である。こういう構造の椅子は、未だかつて世の中に無かったと思う
 
 しかし、現在の私は、この椅子にかなり愛着を感じる。使い心地、座り心地は、他の私のイスと同様、とても具合良くできている。争点は形だけである。その形が、なかなかどうして、悪くはないと思うのである。

 いわゆる「美しい」という事だけでなく、別の魅力があっても良いのではなかろうか。珍奇であっても、馬鹿バカしくても、何か心を惹かれるモノというのは有る。それが椅子というアイテムに必要かどうかは分からないが、要は使う人の心を受け止め、長きに渡って愛着が感じられる品物であればよい。それが作者の願いである。

 世の人の感じ方は千差万別、様々である。そこに最大公約数的なものを探るのが量産ビジネスの手法だろう。一方、生涯に限られた数の作品しか生み出せない個人木工家は、メジャーな路線から外れた領域に踏み込むことがあって良いと思う。自分の過去のスタイルにとらわれる必要もないし、他人の目ばかりを気にする必要もない。期待から外れた結果になったとしても(売れなかったとしても)、責任は自分で負えばよいだけのことなのだから。







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